西教寺の沿革




長ノ木本坊(『呉乃枝折』1904(明治37)年より)
 わが安芸の国は、その昔、唐の留学から帰国された若き弘法大師空海が、大同年間(806〜810)に巡錫(じゅんしゃく)され、呉沙々宇山(ごさそうざん)の麓(今の広島市安芸区畑賀地区)に蓮華寺を創建せられ、その子院が二十八ケ寺に達したと伝えられております。そうした関係から、往古は真言宗が栄えたらしく、安芸地方の浄土真宗の寺院の開基を尋ねますと、真言宗であったというのが多いようです。わが西教寺もそうであったと寺伝には伝えております。

 すなわち西教寺は、その昔は「華峰山光浄院と号」した真言宗の小刹(小さなお寺)であったと申します。その創立は不明でありますが、寛正(1460〜1464)の頃より諦念阿闍梨が住して、当地方一帯を教化されましたが、1531(享禄4)年春遷化せられたのであります。そこで空き寺となったのでありますが、同年初夏中旬「法西卜号スル年不惑(四十歳)ニ近キ旅憎、志学(十五歳)ニタラサル沙弥ヲ伴ヒテ来ル」とあります。

 この人はもと、岩崎若狭守信秀と称する武士で、江州(滋賀県)滋賀郡で、一万石を領しておりましたが、合戦に敗れ、一子を連れて西下したのであります。播州(兵庫県)最楽院において出家し、更に西下する途中、たまたま空き寺である光浄院へ立ち寄り、村人の懇望によって止住したというのであります。

 ところが、この法西師(もと岩崎若狭守)は生死解脱の念い深く、日夜「出離ノ要路ヲ希求シ、有縁ノ知識ヲ祈請」せられておりました。しかるに某日「齢七旬ニアマルラント見エツル老憎、宿センコトヲ乞」われたのであります。この老憎より、一夜阿弥陀如来の他力本願のことわりを聴聞し、随喜の涙禁じがたく、たちどころに他力念仏往生浄土の法門に帰依せられたのであります。これ実に1532(天文元)年12月のことでありました。

 そこで法西師は、直ちに光浄院の檀家の人たちに、この浄土真宗念仏往生のみ教えを伝え、檀家一同の心からなる随喜讃同を得て、翌1533(天文2)年正月、光浄院は浄土真宗に改宗し、「華峰山ノ号ヲアラタメ、所居ノ山上ヲ灰峰卜称スルヨリ、同音ノ字ナレハ灰峰山ト改メ、光浄院ノ名ヲステ西教寺卜唱へ」ることになったのであります。それより本年2002(平成14)年まで、実に470年を経ることになりました。

 開基法西師は、1580(天正8)年10月20日89歳にて示寂され、爾来西教寺は左記の如く相承されたのであります。 
初 代 法西 1580(天正8)年) 10月20日寂 89歳
 2 代  了円 1648(慶安・ママ)年 1月15日寂  81歳
 3 代  了順 1715(正徳5)年 3月13日寂  91歳
 4 代  了正 1716(亨保元)年 5月2日寂  63歳
 5 代  恵正 1734(亨保19)年 1月28日寂  35歳
 6 代  順正 1762(宝暦12)年 11月3日寂  53歳
 7 代  了瑞 1807(文化4)年 5月8日寂  74歳
 8 代  順了 1840(天保11)年 7月2日寂  82歳
 9 代  大音 1830(文政13)年 3月13日寂  39歳
 10代  廓順 1869(明治2)年  5月23日寂  57歳
 11代  大順 1884(明治17)年 9月13日寂  55歳
 12代  大音 1885(明治18)年 2月20日寂  25歳
 13代  円了 1927(昭和2)年 3月4日寂   73歳
 14代  俊雄 1992(平成4)年 1月21日寂  82歳
 15代  正衛 2021(令和3)年 1月17日寂 91歳
満89歳
 16代  智寧 2010(平成22)年〜    
《その2》

浄土真宗の寺院は、五尊様を安置するをもってその資格とされますが、西教寺の記録によりますと、

一、本尊阿弥陀如来木仏許可(慶長十七年(一六一二)六月二十六日、二代了円の代)
二、親鸞聖人御影許可(元禄+五年(一七〇二)七月十四日、四代了正の代)
三、聖徳太子御影許可(同上)
四、七高僧御影許可(同上)一
五、前住良如上人御影許可(元禄七年(一六九四)正月二十日、三代了順の代)

となっております。なお現在ほとんどの末寺では、本堂内陣向って左側、いわゆる御代前は、中興蓮如上人の御影がかかげられておりますが、御代前の名前で知られるように、本来本願寺の歴代宗主のうち前門主の御影を安置するものであったようです。
因みに西教寺の蓮如上人御影許可は、少し遅れて」享保六年(一七二一)十二月九日(五代恵正の代)であります。(略)

第十三世円了師の時代は、時あたかも軍港設置にともなう呉市の発展期に当り人口の増加と共に、御法義発展のため

明治三十六年九月十二日蔵本通説教所
明治四十年九月十二日三津田説教所

が設立されたのであります。同師は仏教大学卒業後、学階得業、崇徳教校教授、本願寺総代会衆(今の宗会議員)をつとめ、昭和二年三月四日七十三歳で示寂、院号専念院。実に西教寺中興の傑僧でありました。

昭和六年三月滋賀県安立寺より伊吹俊雄が入寺、円了の長女ナヲと結婚、昭和十一年西教寺第十四世を継ぎました。

昭和十三年三津田説教所を、
翌十四年には蔵本通説教所

の大伽藍を門信徒の協力によって建立しましたが、昭和二十年七月二日未明の大空襲によって、いづれも壊滅しました。

昭和二十五、三十二年三津田説教所を再建、
二十二、三十七年蔵本通 説教所が再建されました。

長ノ木の西教寺本坊は、戦禍からまぬがれたものの、正徳二年(一七一二)の焼失以来の古い建築で、このたび二百八十年ぶりの庫裡新築となったものであります。

この寺門経営の激務の中を、俊雄師は孜々(しし)として宗学の研鎖につとめ、昭和二十七年学階司教を授けられ、更に同四十七年には最高の学階である勧学を授与せられたのであります。坊守ナヲ女は昭和五十八年四月二十三日、七十五歳(カゾエ)で急逝、法名直入院釋尼秀圓。その温容は今なお門徒一同の記憶に新たなものがあります。(以下略)

15世坊守釋尼彌遠(岩アヤヲ)について(1周会法要の栞)
15世住職釋正衞(岩ア正衞)について(49日法要の栞)
 〔岩崎正衛著『法縁』(1987年)より〕 
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