お精進始末記

それは安芸門徒の自慢であった「おたんやの市止まり」という習慣が
なくなるらしいということからはじまりました。



 一昨年(1995年)の秋ごろ、京都の本願寺新報社から、筆者(住職)のところに電話がありました。「聞けば安芸の地は、昔からおたんやの市止まり≠ニいう習慣があるそうだが、その実状を見たいので取材に行きたい」との申し出でした。命日の前日の夜のことを逮夜(たいや)といいますが、おたんや≠ニは、親鸞聖人の命日の前日である大逮夜(おおたいや)がなまったもので、いつしかその頃行なわれる御正忌報恩講という法座自体をおたんや≠ニいうようになりました。その間数日は、真宗門徒は漁・猟に出ず寺に参り、お精進をしたので市場が休みになりました。これをおたんやの市止まり≠ニいいます。

 このことは、『藝藩通史』にもみられ、その編纂時期からすると少なくとも約170年は続いている習慣であるといえます。私は、その「おたんやの市止まり」が全国に紹介されるのだからと思い、大変喜んだのですが、それでも念のためと思い、近くの魚屋さんに尋ねたのです。すると、「確かに今年(1995年)までは市場は休みであったが、来年(1996年)は、1月16日は休みにしない」というのです。それにならって魚屋さんも店を開けるということなので、愕然とした思いの中、その旨を京都へ電話をして、取材を見合わせてもらいました。

 このことを聞いた「正信会」(私たちの属する安芸南組の若いお坊さんの勉強会)の人々がその理由を確かめたところによると、「1996年は、1月14・15日が日曜日・成人の日と2連休で、16日を休みとすると3連休になってしまうので、市民の健康保持上、好ましくないから」というような返事でありました。それで一安心をして、「それではまた1997年からはまた休みになるのですね?」と念を押したのですが、そのことについての確約は得られませんでした。先日判明したところによると、今年(1997年)も市場は営業するそうです。

 しかしこのことは、鮮魚店や市場にどうこうすることよりも、食べるのも、殺すのも同罪なのですから、むしろ私たち真宗門徒がここ20年ぐらいでなし崩し的にお精進をしなくなり、僧侶もそのことにあまり口を開かなかったことを深く反省しなければなりません。そしてその結果、お互いが忘れてしまっていた大切な心を、その習慣とともにあらためて見直すことが私たちの願いなのです。
そこで、お精進とその心を大切にしようとのキャンペーンを展開しております。リーフレット『お精進のすすめ』を配ったり、ポスターを貼ったりしているのです。

仏教におけるお精進

 お釈迦さま以来、長い仏教の歴史において、私たちが苦しみを超えてゆく、仏になる道は、基本的に世俗的な日常を捨てて出家し、戒律を守り、修行によりひらすら心を深めてゆくのが習わしでした。「精進」とは本来、出家者の道として、「さとりを目指して仏道修行にはげみ努力すること」を意味していました。それがいつの頃からか、仏教の代表的な特徴である「殺さない」「不殺生」という生命尊重の意味を持ちながら、「肉や魚を食べないで、つつしみの日を送る」という、現在我々が使っている精進の意味に転化されたのです。まことおいしいものを食べずに辛抱するのには努力のいることですからこうなったのでしょう。このように「精進」は、出家者の道として、不殺生戒という戒律として、毎日守らなければならない生活規範でした。

浄土真宗におけるお精進

 それに対して真宗は、出家者に対する在家者の道として説かれました。それは、出家するというような、世俗的日常を否定した立場、非常に高いレベルからスタートするのではなく、そういう日常を捨てきれない、むしろ煩悩多く罪業深くして、仏道にはいつも背き続けているものの道として説かれてきました。嘘をつき、いいたくもないお世辞をいい、殺生などの罪を重ねて、魂を切り売りをしながらも、本願を信じ念仏を申せば救われる、出家者の道と同様仏になるというのです。これが真宗の教えです。法然上人は、

「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。いはくひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、聖にて申すべし…衣食住の三は、念仏の助業なり」(『和語燈録』)

と、念仏を中心に、念仏が申されるように過ごしなさい、と示されて、それを軸として従来の戒律の生活を否定し、新しい生活倫理を示されました。ですからこれを承けた真宗は、他の御宗旨と違って戒律がないのが特徴です。つまり、真宗門徒は必ずお精進しなければならないというのではなく、歴史的にはむしろお精進をしなくてもよいと説いたといえましょう。

なぜ浄土真宗でお精進なのか−現代における意義−
 
 しかし、戒律を重んずる他宗からはお精進の習慣は生まれず、むしろ真宗門徒からこの習慣が生まれたのはなぜでしょう。それは、真宗が特に人間の罪深さを凝視する眼が鋭いことによると思われます。そして、その教えを聞いた人々が、確かに確かに、それが恐ろしい罪であることを自覚していたからではないでしょうか。自己の行ないが罪であることに本当に気づく時は、自己自身の隣に、自分と同じ生命の連なりをもった生命、他者の存在が自覚される時です。その時、私たちは少しでも何とかしたいと思わずにはいられないはずです。いのちのまことにめざめ、大きな幸せをいただいた喜びと慚愧の上から、せめて「今日一日ぐらいはお精進させてもらわなければ」というのが、浄土真宗門徒のご報謝行の最たるものではないでしょうか? この「市止まり」という習慣は、利潤追求を最優先する娑婆世界で、どっぷりと首までつかり、罪業に苦しみながらも、どこかで大切に願いを持ち続ける、そういう「念仏が申されるよう」な生活の基本姿勢、過ごし方であり、その中から、私たちの先祖によって生みだされ、確かめられてきたものであったということではないかと思います。それにしても、年に一日でも殺生をしないという理由で営業しない企業がある(正確にはあった)というのは素晴らしいではありませんか。そのことを実行し続けたご先祖の人間性に敬服することです。やがて一月十六日の「おたんや」がやって参ります。私ども安芸門徒の先祖は「煮込め」という保存食(作り方はパンフレット裏面に掲載)まで考案して、数日のお精進をつとめてきたのです。どうか私どもも、一日でも一食でもお精進をして、仏法に会った喜びと、ものの生命の尊さを身体で味わいたいものです。

  (岩崎正衛「お精進始末記」『西教寺報』1997.1)



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