解釈で「還」も「帰」も
−経典・人類普遍の願い"表現−

城山 大賢
(浄土真宗本願寺派報正寺住職)
 

 「還浄」をめぐって、真宗教学上で論議がまき起こっている。以下、非才を顧みず、私見を述べて大方のご批判を仰ぎたい。
 本来、仏教のめざすものはより普遍的な人生観と世界観であると言えまいか。
釈尊や親鸞の人生観、世界観が絶対であるとは限るまいし、その人生観、世界観をどうとらえるかということも大事であるが、両先人の人生観、世界観をもとにして、さらにより普遍的な人生観と世界観を考究していきたいものである。「還浄」論も、より普遍的な人生観と世界観の考究というところからとらえたい。
 「還浄」にしろ「帰浄」にしろ、本来浄土とは何かが基本である。浄土は、経典では阿弥陀仏が建立した世界ということになっている。阿弥陀仏も、浄土も、釈尊当時には、観念も思想もなかったといわれるからには、これは無名の経典作者の創作であり、経典作者の観念の所産であると言わざるを得ない。
 では経典作者は、何を根拠に創作したのか。それは彼の理性の探求による人間性の原理であり、人類普遍の願いと言えまいか。人間性の原理、人類普遍の願いとは、自由、平等、博愛、平和などであり、仏教的には無我、慈悲、利他、布施などであろう。彼はこれら人間性の原理、人類普遍の願いを人格的に純化、象徴化して「阿弥陀仏」と表現し、また局所的に純化、象徴化して「浄土」と表現したものと察する。
 ところで、私はどこから来て、どこへ"かえる"のであろうか。事実としては大宇宙、大自然の中から来て、大宇宙、大自然の中にかえって行くのである。もう一つの答えは、私は本来本能の世界から生まれてきて、やがて理性に目覚め、この本能を根拠にした我執煩悩と理性の間で苦悩しながら、やがて生を終えるのである。
 本能、我執、煩悩こそ生まれ来たった生の本国である。しかし、そこはかえるべき安らぎの本国とは言えない。ならば本能、我執、煩悩を断じた世界は安らぎの世界なのか。否、本能、我執、煩悩を一切断じて生は成り立たないのである。
 本能は生の基底で、あるならば生の本能のままに、我執煩悩を解脱した無我、慈悲、利他、布施などの世界こそ、行くべき、またかえるべき真実の安らぎの本国と言える。
 浄土建立物語から言えば、浄土は阿弥陀仏が衆生のために建立された世界であるゆえに、その浄土に元々衆生がいるわけはないので、浄土にかえるという字は、元にかえる「還」ではなくて初めて行く「帰」であろう。
 だがまた、たとえ本能、我執、煩悩が生の根源であっても、前述のごとく浄土の根拠である理性に基づく人間性の原理、人類普遍の願い、また無我、慈悲、利他、布施などの方を、より人間の本質、本国、本来地ととらえるならば、浄土にかえるという字は「帰」ではなくて「還」であろう。
 龍谷大学編「真宗要論」の「仏と衆生とは、斉しく一如法性より縁起したとはいえ、仏は全性修起したものであるから、一如の徳が全顕しているのに対し、衆生はそれに背反して顕れ出たものであるから、一如の徳は全く覆蔽されている。
ここに真如一元より縁起しながら、迷悟両界として分かれる理由がある」(一〇七ページ)というのは興味深
い。