「死んだらホトケ」をめぐる現場の声
参列したお通夜の帰りに乗ったタクシーで、S先生は同乗者から次のような質問を受けたそうです。「あなたはお坊さんですか?それじゃあちょっとおたずねするんですがね、さっきのお通夜の席で法話をしたあのお坊さんは、なくなったAさんがお浄土に生まれたと言っていましたよね。でもね、私は死んだAさんと親しくしたんでよく知っているんです。Aさんは、日頃から神や仏を信じていなかった、だから、一度も寺に参ったこともないし、手を合わせたこともなかったんです。それでもAさんはお浄土に生まれたんですか?」と。
■信心正因では?
浄土真宗は「信心正因」という教えです。真実信心を獲ていなくても、死にさえすればホトケになるという教えだったでしょうか?この話を聞いて以来、私は様々な場面でこのことを意識して見聞きし、また、質問するようにしてきましたが、亡くなった人を「浄土に往生している」とか「仏になった」という前提で話が進む法話があまりにも多いのに驚いたことです。「模範法話集」などに書かれているものは、ほとんどはそうなっていますし、法座、連研、お通夜等、私の経験した範囲内では、少なく見積もっても、半数以上の僧侶はそう説いていると言っても過言ではありません。これでは、寺に参って教えを聞くことも、お念仏申すことも必要がなくなつてしまいます。
以下、このことをめぐる様々な意見をご紹介します。
■商売
話をもとに戻すと、S先生は「あの坊さんはきっと商売で言ったんだろう」と答えたそうです。つまり、「サービスでおべんちゃらを言った」ということでしょう。確信犯的に、そこまで居直った僧侶がいるかどうか私は知りませんが、「そう言っておく方が差し障りがないから」という理由で、つい楽な方へ流れるということは結構あるようです。だからと言って、悲しみにくれる遺族に面と向かって、「さあ、どこに生まれたかわかりませんなァ、犬になったやら猫になったやら」と言えということではありません。「教え」を大切にする限り、お互いに踏ん張らなければならないところだということです。
■なぐさめ
ある僧侶は、子どもを亡くした若い女性に、なぐさめるつもりで「お子さんはお浄土におられます」と言ったら、「何を根拠にあなたはそう言うんですか?」と真剣な表情で問いつめられたという経験を話してくれました。その通りで、どこへ生まれたかなんて本当のところは誰も分からないことです。また、亡くなった人の信心の有無についても、僧侶と家族とどっちがよく分かるでしょうか?軽はずみなことを言うべきではないと思います。
■方便
また、自信満々に「寺へ参らせるための方便だ」なんて噂く人もいました。個人的には私はこんな不誠実極まる、人を愚弄した話はないのではないかと思っています。後々、どうやって責任をとる (信心正因を伝える) ことができるのか、方便という名の 「ご都合主義」 に終わらないよう注意すべきでありましょう。
■いのちの尊厳
また、人の人生に優劣をつけるのは差別だという人もいます。すべての「いのちの尊厳」に敬意をもって接しょうと言うことには首肯できます。しかし、各人が持っているその 「尊厳」がその人が「仏」だということを意味するのでしょうか。慎重に考えなければならないのではないかと思います。
■還相回向の菩薩
私は、特定の人を「仏」 (還相廻向の菩薩・権化の仁) として理解することを否定しているのではありません。たとえ、仏法を毛嫌いしながら死んだ人であっても、「私にとっては私を仏法へ導いてくれる(た)仏だ」という世界はあると思います。しかし、大事なことは、「私はそう思う」という個人レベルと、よく知りもしない他人を含めて「皆がそうだ」という普遍化した「教え」のレベルで説くのとは、区別しておかねばならないと思うのです。「凡夫」ということを忘れて、みな仏・菩薩だというよぅな観念論が幅をきかせ始めると、またぞろ「天皇が阿弥陀仏だ」という教えもまかり通るようになるのではないかと危惧されることです。
■無帰命安心・十劫秘事
「阿弥陀さまがどんな悪人もお救い下さると誓われておられるから、人間の側は関係ない」 つまり、信心も念仏も聴聞もいらないということです。
こういう立場の僧侶も意外と多いのです。ある教区の布教使研修会でこういう法話をした僧侶がいたそうですが、講師をはじめ他の誰も何も言わなかったそうです。みながそう思っているからでしょうか?
■まとめ−「自信」と「教人信」−
以上、さまざまなご意見を紹介しましたが、これらの僧侶の「自信」について、私はお尋ねしたい気持ちです。自分自身の仏道の問題であっても、やはり信心も念仏もいらない、仏法も聞かずにホトケになれると思っているのかをです。さらに、遺された者の気分でホトケにもなり地獄にも堕ちたりするような、また、生命の尊厳をホトケという、それがあなたの願う仏なのか?と言うことをです。
また、「教人信」について感じるのは、「差し障りがない」ように「本当のところは誰もわからないのに」「方便という名のご都合主義」で発言する僧侶の、「不誠実さ」と「無責任さ」です。これらは、「自信」の問題点という表裏の関係にあると思われますが、「無帰命安心・十劫秘事」に至ってはどうでしょう?「人間の側は関係ない」のですから「誠実さ」や「責任」さえも問題にできません。まるで魔法の世界の話のようです。
諸賢の御叱正を仰ぎます。
(岩崎 智寧 安芸教区衆徒)
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